2012年4月7日土曜日

ごん太」 Who?

「ごん太」近影

 

 平成24年7月28日 柘植裕子(福島市動物病院)

○住居に戻れぬ避難民

○行くたびに朽ち果てる避難区域

○新入りの「じっち」は静かに息を引き取った。

○犬猫放置のまま帰宅困難地域に再編された飯館村長泥地区

○可能な限り救援してるが、今から冬が心配

○ゴン太は元気


昨年の3月11日、震災一時間後には、猛吹雪が始まり、家から逃げ出した犬達が道路や公園に屯し、それを心配した親切な(お節介な・・)犬好きたちが病院に搬入してきました。おそらく自分たちの家もメチャクチャだったろうし、電気水道ガスのすべてが止まり、どう一夜を過ごそうかというさ中にです。私の自宅も住めるような状況ではなく、大分長いあいだ、病院で動物達と一緒にすごしましたが、当日の動物達の様子は、怯え、ふるえ、食欲もなく鳴くばかりでした。地震直後に家を飛び出した多くの猫たちは、大半がいまだに戻ってきません。一体どこへ消えてしまったのか?
 あれから一年もたち、表向きは通常の生活を取り戻したかのようにみえますが、多くの原発圏内からの避難民は、そこここの仮設、借り上げに住まい、先の見通しは立っていないのです。
瓦礫や除染土の仮置き場すら決まらない所ばかりで、復興の進捗は感じられません。動物達の給餌や保護で圏内や飯館に入ると、錆びついた車や農機具が放置され、道路に蔦が這い、畑の、異常に育った蕨の太さにジュラシックパークを思いだし背筋が寒くなります。犬かと思えば狐、トンビだと思ったら鷹、目の前でキジバトをくわえた猫が鷹に鷲づかみにされたことも。避難者の方々も、最近は、一時帰宅で戻れば、行くたびに朽ち果てていく風景に気持ちがふさぎ、かえって行かない方が精神的に楽だと言う方もいます。
ただし、飯館に関しては、未だに動物を置いてきているため帰らなくてはなりません。そのような動物が多く残された長泥地区が17日をさかいに帰宅困難区域に再編され、6箇所のバリケードで封鎖されてしまいました。住民と一緒でなければ給餌のボランティアが入れないのです。どうなるのか?里親が見つかった動物は数少なく、今年の冬を今から心配しています。長泥は、桜、つつじ、あじさい・・と季節ごとの花が咲き乱れる桃源郷です。自分たちで開墾してきたため、住民の土地への思いは大きく、出なければならないことが分かっていても草刈や桜の剪定や植樹によねんがありません。くじけないで淡々と作業をする村の人々には、必ず戻りたいという思いが感じられ、鼻の奥がツーンとしてしまいました。東電の会長、社長、社員に見てもらいたい風景でしたが・・・・・
2012年7月5日に国会事故調査委員会報告書が発表されました。同報告書では、自然災害を起因とする過酷事故に対する備えが脆弱であることを知りながら、耐震補強工事は進められず、東電社内では、いつしか2016年1月まで先送りされていたことが明確に書かれていました。福島原発事故は人災によって発生したとしています。 人災であったとすれば、あれ程の地震津波でも、今後は、「人の力で原発の事故は防ぐことが出来る」というロジックが成り立つのです。そうなると、原発を稼働したい側からは、防ぐことができるのだから、今後の稼働は安全に出来る、ということになります。しかし、事故さえ起こさなければ稼動に賛成できるか?といえばやはりNO!です。
  東京電力の下河辺和彦会長と広瀬直己社長は7月4日、就任後初めて福島第1、第2の両原発を視察、その後の報道陣の取材に対し、第2原発の廃炉について「今は全くの未定」と語った。 東電の経営トップ2人が廃炉を明言しなかったことについては、様々な理由があるのでしょうが、ここに住む当事者としては、とても許しがたい気持ちでいます。事故直後も、当時の清水正孝社長が、「福島第一原発は、廃炉にせざるを得ない」と、あたかも廃炉を未練がましく語り、はらわたが煮えくり返る思いをしました。この一年、福島県民が経験した辛さは簡単に語ることはできません。事故を起こした炉の廃炉の工程計画もなく、生活基盤は、完全に崩壊したままでいます。

と、ここまで書いて、一週間放置したままになりました。とめどもなく、東電に恨み辛みを書き続けそうで面倒になってしまったのです。今さら書いても東電が反省するでなし、「暖簾に腕押し」です。何を言っても、この現状を受け入れるしかないのが現実です。この福島の瓦礫と11417本の未使用、使用済み燃料棒を引き受けるところはないのです。今、生きる現実にもどります。
じっちは、5月17日の未明にひっそりと息をひきとりました。前日に食べたものを吐き、自力で立ち上がることが出来なくなって間もなくでした。じっちの保護された小高(南相馬市)は、まだ荒れ放題です。地震からの4か月をどう生きてきたのか・・・認知症のようで食べ物や人の判別もよくできませんでしたが、陽だまりで頭を撫でていると、私の膝にアゴをのせ目を細めて気持ちよさそうにしていました。最後を看取れて私も満足でした。その間、支援の物資や励ましの手紙と皆様には、とても感謝しております。ありがとうございました。
 今は、保護した猫達のほとんどがエイズ、白血病、伝染性腹膜炎のキャリアで、その半数が発病状態で連日の治療に忙殺されています。院内で感染するために新たな保護が出来ない状態です。また、あっという間に冬が到来すれば、新たに生まれた子犬子猫にも厳しい試練が待っています。続けられるかぎりは保護していくつもりですが終わりはみえません。継続的に支援をして下さる皆様には、本当に感謝しておりますが、いつまでも甘えても申し訳なく、なるべく自力で頑張っていくつもりです。本当にありがとうございました。
 ごん太は、相変わらず元気にしています。最近、いただいたお布団で、大の字になって昼寝をしております。飼い主さんは、いまだに楢葉に戻れず、ごん太は、入院室の牢名主の地位を確固たるものにしました。(新入りの面倒は、あまりみていない?)
2012年728


4月29日 柘植裕子 (福島市の動物病院)

〇飯舘村の母親犬と息子ワンを救出
〇福島市の里親に預ける
 
 今日は、久しぶりに良いことがありました。飯館村の年老いた母親犬と息子ワン、この二匹は、新築と思われる家の敷地にこの一年ずっと番犬としていました。
放されているために、年老いて耳の聞こえない母親犬は、歩くのがやっとの状態でよく道路に出ていました。この一年なんどもスピードを出した車に轢かれそうになり、そこを通るたびに死んでいるのではと恐る恐る確認、生きていると「ホッ」とするのでした。
しかし、このところ外耳道炎だった耳が中耳の方まで炎症が深くなり、このままではもっと深刻な状態になりかねなく、夏を越せないのでは?と心配していました。息子の犬は、私たちが立ち去るときに、必ず走って車を追いかけてくるのがたまらなくつらくなり、とうとう昨日張り紙をしてきました。
一時預かり、もしくは帰村が困難であれば里親として面倒をみたい旨と連絡先を書いて・・で、先ほど飼い主さんから連絡がありました。避難先は、なんと、当院から車で5分、マンション形式の公務員宿舎でした。飯館の避難先は、動物が飼育出来ない所がやたら多いのです。そもそも、警戒区域の避難が先だったために飯館の避難先は、条件のいいところが少なくなっていたのですが。
飼い主さんによれば、避難が決まった時に二匹の犬を連れて行けないことが分かり、飯野のシェルターに預かりを依頼したところ断られたということでした。(昨年は、飯館は対象外でした。環境省が管轄していた警戒区域の動物しか入れてくれませんでした。もっとも200頭以上いて入らなかったのも事実ですが。今は、県に事情を相談すれば入れるのですが、知らない人が多いのです)犬を放してくるのはとても心配だったそうです。
やはり、轢かれてるのではと、いつもドキドキしていたと。しかし、当初はつないでいたのですが、離れた犬に襲われたことがあり、それからは、心配でも放して来るようになったということ。また、2~3日に一度は、見に行っていたということでした。私が、一週間に一度行くのも大変な負担でしたので大変だったと理解できます。一時間半片道かかります、雪が降ればもっと大変でした。12月から2月までは雪の無い時はほとんどありませんでしたから・・そのようなところに犬を放して置いてくるのは、とても辛く、暖かで環境の良い避難先にいると、犬を思い出しかわいそうでならなかったということでした。  
 飯館に夜行った時、人が住まなくなった村は、漆黒の光の無い世界が止めどもなく続き、時折出会う狸の目が赤く光りドキッとさせられました。犬達は、人のそばがいいのです。飼い主さん「本当にお願いしていいんでしょうか?やっと気持ちがおちつきます」とおっしゃられました。犬達は、2日に病院に連れてきたあと、うちの患者さんで、多くの犬を助け、引き受けてきたベテランの里親さんの家で、余生をおくることになりました。2匹一緒で家の中で飼われます。わたしは、うれしくてたまりません。
 もっと早くに張り紙をしてみれば良かった!


平成24年4月5日 柘植裕子(福島市動物病院)

〇スローライフの村は今・・
〇吹雪の中をラッセル
〇あぜ道を犬、猫が追ってくる
〇撫でられて身をよじる犬

 ここ数か月、計画避難区域相双地区の飯館に通っています。
本当は、行きたくありません。阿武隈の山間にあるこれらの村は、かつては桃源郷のようなところでした。
 しかし、人気の失せた村、荒れた田畑や主のいない広大な放牧地は、殺伐として寒々しい風景に変貌してしまいました。飯館は、氷点下20度を記録したこともあり、冬が長いのです。4月をとうにむかえた昨日も吹雪になりました。
飯館の山奥に実家がある当院の患者が、年老いた母親が飼っていた犬や猫の給餌に、週に一度、私の四輪駆動の車で行くことになったからです。
原発事故後に避難が決定され、その年老いた母親は、あっという間に認知症になってしまいました。施設に入ることになったために、飼っていた動物達、犬一匹、猫十匹は、山の中に放置されることになりました。
 犬は、福島に住む次女(当院の患者)の大家さんのご厚意で、大家さんの犬とお庭で同居させてもらいましたが、猫は、ひっそりとした山奥で自由に駆けまわり簡単には捕まりません。
半年で、三匹の捕獲という散々な結果のために、毎週の山行きを余儀なくされています。元の主がいなくなった犬小屋には、昨年の暮れにつがいの犬が住み着いてしまい、三匹の子犬を生んでしまうと言うオマケつきで・・・つい最近捕獲に成功した猫は、六匹の猫を出産するところでした。それこそ臨月すれすれの避妊手術で胸をなでおろしたところです。
残りの七匹の猫の捕獲、給餌には、急勾配の坂道をクネクネと上っていかなければなりません。 
 雪の季節は、1mもの積雪のため上り口の道路に車を放置し、餌や水、捕獲器は背負ってラッセルしながら登っていかなければなりません。60にもなって始終ぎっくり腰をおこす私が、こんなことをする羽目に・・・・東電を恨む!
片道1時間半の道程には、途中、車を見かけて遠くの田んぼの端っこからあぜ道を走ってくる犬や猫の姿が目に入ります。人が来たのを知って餌を貰うために走り寄ってくるのです。路肩に車をとめていつも積んでくる100円ショップの洗面器に缶詰やパウチを入れてやります。バターロールなどのパンは、犬が大好きですが、かれらは、餌が欲しいだけではないことが程なくしてわかりました。
 人に会いたかったのだと。頭をなでてやると身をよじり甘えます。立ち去るときに、犬は追ってくることがあり胸が張り裂けそうになりますが、全部を連れてくることは叶わず、ジャーキーなどを山盛りに置いて、食べている隙に車を発車させてきます。どうしても病気や妊娠しているのが優先になるのです。
 途中に犬や猫がいるところはだいたい把握しているために必ず給餌に寄ってくるのですが、時には死んでいたり姿が見えなくなっていたりと辛い道行になるために、最初に「行きたくありません」と書きました。本当に毎週行くのは辛いです。しかし、もし、飢えていたら、待っていたらと思うと出かけざるをえません。ここに時々書かせていただいたことから、小屋のない動物達に小屋の設置もだいぶできました。
 飯館は、村に帰ることを目標にしていますが、本当に帰る事ができるのでしょうか?線量計は、5~10マイクロを指しているところに出向いています。たまに低い日もありますが、そう線量は下がっていません。原発事故が終息しているとは到底信じられませんが・・・こんなことをいつまで続ければいいのか?ひたすら、自分が病気にならないことを願う日々です。 
飯舘の一部、帰還困難?国が提示
飯舘の早期の除染求める 


平成24年1月26日
「支援を下さった皆さまへ」  柘植裕子 

〇置き去りの犬のために犬小屋を買いました 
〇車で新幹線で餌やりに駆けつけてもらっています 

 今晩も、氷点下です。地吹雪や凍てつく空を見ると胸が苦しくなります。
計画避難の飯館や山木屋地区には、多くの犬猫が置き去りになっています。
昨年の冬は、炬燵で丸くなっていた猫は、人気も火の気もない納屋で。
 犬は、凍りついて形の変わってしまった鍋の氷で渇きを癒そうとしたようで、舐めて真ん中がへこんでいました。
 給餌のボランティアが行くと「ここにいるぞー」とばかりに尾をふりながら吠え始めます。神奈川から来たNさん、「すっかり衰弱して顔も上げない犬がいるの・・年老いて病気のようだし・・餌は食べてくれたけど、この次行くまで生きていないかも」と肩を落とす。
 どうして飼い主は連れていかないの?と疑問に思いますよね。もともとは、繁殖も自然に、生まれたらばあげたりもらったり。みんな、広い土地に3世代で暮らしたりで家も大きいのです。隣の家には車で行く、などという村に住んでいたのです。中型犬が一家で2~3匹、猫10匹なんていう家もおおいのです。2LDKの公務員宿舎や仮設では飼うことができません。毎日餌やりに来るには、避難先が遠く、ましてや冬ともなれば氷点下で道路も凍ります。
 とても、毎日動物の世話にだけ来るのは大変なことでしょう。だからといって放置して良いわけはありません。しかし、じゃあどうすればいいの?運まかせ?天気予報で寒波が来ると言っていました。つながれたままで吹きっさらしの所にいる犬達は、少しでも寒さから身を守るために穴を掘っています。でも、いつもお腹がすいているうえに寒波となれば凍死してしまいます。現にどれだけ凍死体を見たか。ですから氷点下というと心まで凍りそうです。ここの山際さんからのご紹介でいただく寄付は、そんな犬達のために  犬小屋を買うのに使わせていただきました。いただいた毛布も犬猫のために小屋と一緒に使っております。今日も、7台小屋がとどきました。ありがとうございました。ここのブログから救援の輪が広がり、とうとう、スタッドレスタイヤを掃き、チェーンの着脱も覚え、ブランドの服をかなぐり捨てて、ユニクロの暖パンをはいて来たNさん、本当に心からありがとう。そのような方が5人いらっしゃいます。中には、飛行機で新幹線で・・、「そんなの自己満足」とおっしゃる向きも、しかし、少しでも飢えずに暖かいおもいをしてくれれば、忘れてないからね!君たちのこと!いつも、心配して心を痛めてくれる人達がいるから。

平成24年1月2日
「支援を下さった皆さまへ」  柘植裕子 


 支援を下さった皆様への御礼を・・
 昨年は、福島県の動物達に暖かいご支援を本当にありがとうございました。まだ、シェルターの体制も整わず餌も不足していました。そのような折に山際様から「募集をしてみましょう」とおっしゃっていただき本当にありがたい思いでした。高価な処方食や暖かい敷物、お金、と申し訳なく思っておりました。
 不景気な上に震災での経済の低迷と、皆様にとっても大変な年だったとお察しします
が、次々に届けられる物資は本当に役に立ち涙が出ました。ご自分たちも節約なさってのことだろうと思い、すべて大切につかわせていただきました。経済的な負担はもとより荷造りの手間は大変だったと思います。阪神地震の時の自分の無関心をあらためて恥ずかしくおもいます。皆様にいただいたご親切を忘れずに出来る限り支援をしていくつもりです。ありがとうございました。